生きる意味を知る①

ふとしたきっかけで仏教の話をネットで読んだ。
それによると、生きる意味というのは死を怖れないようになることらしい。

人は誰でもいつかは死ぬ。そして死を怖れない人はいない。
死を前にすると、人は皆自分の人生を振り返り虚しさや後悔の念に苛まれるという。
どんなに富や名誉を得ても 偉大な研究を成し遂げても 立派な経歴を築き上げても、死が間近に迫ると全てが虚しく感じるらしい。
死を怖れずに亡くなるには仏教の真髄を知ることだそうだ。

私は若い頃信心がなくて自分ほど不幸な人間はいないと思っていた。やがて不幸の原因は信心が足りなかったからだと思うようになった。
というのは、友人知人の中でお盆にお墓参りに行っていないのは自分だけだと知ったからだった。
親が行かなくていいよと言うので行ったことがなかっただけなのだが、それを友人や知人に言うと驚かれた。
その時に自分のこれまでの不幸はご先祖様のお墓参りを怠ったせいだと思ったのである。
そう思ったので、自分の娘にはお墓参りをさせようと考えて幼い頃から毎年お盆には一緒にお墓参りに行くようにした。
そのおかげで娘は私とは全然違って幸せな人生を歩んできたと思う。

私は試験という試験に全て落ちた。高校受験も大学受験も失敗して志望した学校には行けず劣等感を募らせていった。
就職活動には消極的だったので、父が勧めた臨時職員になりアルバイト感覚で働いていた。その時も正社員と机を並べて同じような仕事をしながら待遇の格差にまたもや劣等感の塊になった。
全て自分の努力が足りなかっただけなのだが、どうして自分だけがうまくいかないのだろうと思った。
そして自分自身のことが大嫌いになっていった。
どうせ自分は不幸な人間なんだと投げやりになり、その後人に勧められた見合い話で簡単に結婚してしまった。
そして離婚。
性格や価値観の不一致や経済観念の違いなどいろいろな理由があったが、離婚の一番の理由は初めて相手のお墓参りに行った時に『このお墓は私が入るお墓ではない』と直感してしまったからだった。
なぜそう思ったのかはわからないが、とにかくそう感じてしまったから仕方がない。
そして僅か2年半ほどで離婚してしまった。

娘は試験という試験に全て合格して希望した仕事に就き、好きになった人と結婚して幸せな人生を歩んでいる。
娘を見ていて、好きな人と結婚して幸せになるということがどんなに素敵なことかと思う。本当の夫婦とは、家族とはこんな感じなんだなぁと思って見ている。
娘が幸せになって私も幸せだ。
娘を産んだことが私の人生の最大の幸せだと思う。

そして私の今世の目的は、娘と出逢うことだったのだと思っていた。父が亡くなるまでは。